2008年08月09日

アランとサンタラ

アランスミシーバンドのボーカル、かっしーです。
普段人は僕の事を「ヒデ」と呼ぶ人も多いですが、ここではかっしーとします。
なぜなら、このブログではきっとそう呼ばれるからです。

ちうことでトップバッター、アランスミシーかっしーの目からみた「なれそめ」です!

僕らは京都外国語大学ということろで出会いました。
中学はテニス、高校は自転車競技部とスポーツをやっていた僕は、大学入学と同時に何かクラブに入ろうと思い立った訳ですが、今思うと何をどう思って突如そのクラブに入ったのかわかりません。

アメリカンフォークソングクラブ。

なんとなく名前が落ち着いた感じでよかったのと、年代がばれますが当時は空前のクラプトンのアンプラグドブームで、洋楽が好きだった僕はふと吸い込まれる様に部室見学にいきました。入り口のところに「アメリカ民謡研究会」と書いてある古びた看板があり、ははあ昔はこう呼ばれてたのかと思いつつ、そのネーミングにちょっと引いたのも覚えています。あと余談ですがその時同じ様に見学に来ていたSという新入生に、僕が「どうするん?はいるのん?」と聞いたら「いや、おれボディービルかここにするか迷ってるんよ」と言われ全く意味がわからなくて呆然とした、という記憶も付け足しておきます。結局このSとはその後入部以来ずっと同じバンドを組むわけなのですが。

本来はブルーグラスのようなルーツ音楽をやるクラブだったのが、だんだん音楽性が広がって行き、「とりあえず洋楽(カバー)をアコースティックでやってたら基本オッケー」という割に自由なスタンスのクラブでした。

貴殿の自伝などどうでもいい!という方、お待たせしました。ここでサンタラが出てきます。それは僕がこのクラブに入ってすでに3回生となったときです。今度入ってきた新入生にとんでもないのがいたのです。

それがあの田村キョウコでした。

声の出し方から音色から歌い回しから、マーなにしろとんでもない。本人はまるで意識してる様子もなく、いわゆる天性のモノで、嫉妬すら感じました。

「あ、歌手ってこういう人がなるんや」と心の中ではっきりと思ったのを覚えています。だから僕にとっては、今のサンタラ田村キョウコ、つまり歌を仕事にしているというのは当たり前の顛末なのです。

そして、砂田和俊。僕にとって衝撃の想い出があります。
それは、引退の時。といっても、自分の引退の時ではありません。
このクラブでは、3回生が引退するとき(クラブ活動は3年で終わりだったので)、2回生がオリジナル曲を作って全員で歌って送るという、学生らしい素敵な伝統がありました。普段カバーしかやらないこのクラブにおいて、オリジナルをやるというのは非常に大きい意味を持つことでした。
僕の引退の時はもちろん一年下の代がそれをやってくれました。曲に感動して、涙の引退だったのを覚えています。

そして、その僕の一年下の代が引退するとき、つまり田村&すなだの世代が送る立場だった時です。僕はすでに4年生OBでしたが、そのシーンを見ていました。

そのオリジナル曲を聞いて、僕はすでに部外者になっていたというのに、もう全身鳥肌が立つぐらい感動したのです。いや、むしろその瞬間なんやったら鳥になってたかもしれんというぐらいです。

その曲の作曲者が、すなだ氏だったのです。

それからずっと後、ちょうど僕もアランスミシーバンドで動き始めたころです。風の噂にサンタラのことを聞き、それが田村&すなだの組み合わせと聞いた時の僕はこう思いました。。。


「はやめに潰しておかねば。。。!」


というのは冗談ですが(というかこっちが潰される立場(笑))
とにかく余りにパーフェクトなコンビネーションであることは今さら僕が述べるまでもなく皆さんがご存知の通りです。


あれ?ラブハンドルズは?と思ってる方、驚くなかれ。
ラブハンドルズ若林氏は、なんと僕らが部室から目の前のグラウンドめがけて歌っている時、そのグラウンドでサッカーをしていたのです。。。!









posted by Crossing Point at 23:59| 兵庫 ☁| Comment(0) | アランスミシーバンド | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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