皆さまようこそ特設blogへ。
サンタラ 田村キョウコです。
サンタラ、アランスミシーバンド、ラブハンドルズ
この三組の出会いっていうかすれ違いっていうかそのあたりは
それぞれのメンバーが初回に書いてくれてますので
それは彼らに預けるとして
私は私自身が音楽という非日常を日常としてしまった
その顛末を「思い出の一曲」「思い出のアルバム」とともに書いていこうと思います。
大学にてアメリカンフォークソング部(通称アメ民)に所属するまで
音楽とは無縁でした。
思いっきり庶民な親の期待を背負って3歳でピアノを始めたものの
まったく興味が持てず、小学校にあがる頃には辞めてしまっていたし
学校の音楽実技のテストなんて
歌が上手い方が恥ずかしいと思って
教科書に載っている一番短い曲すなわち「君が代」を選び歌った記憶があります。
ただ短いというだけの理由で「君が代」を選ぶ
幼い私のノンポリさに腹が立ちますが、もう大人なので笑って忘れることにします。
さて、思春期は誰だって音楽を楽しみます。
いくら私でも例外ではありません。
サザンオールスターズが大好きでした。
当時のサザンは
今現在のお年寄りから子供までといった国民的大スターの雰囲気ではなく
あくまで大人のバンド。
クラスの友達にファンはいなかったように思います。
私にサザンを教えてくれたのは親戚の姉ちゃんで
特にファーストアルバム「熱い胸さわぎ」は今でも愛聴しておるよ。
桑田メロディーにはふんだんにブルースフィーリングが盛り込まれていて
子供ながらにそこんとこをかっこいいと思ったものです。一曲なんて選べない。全部いい。
高校に入ってからは
実家近くにある米軍基地のラジオをよく聴いていました。
なぜならうちの背後には山があって国内放送の受信状態が悪かったからです。
学校から帰ってなにげなくラジオをつけると
その時間ちょうど放送していたのが
50年代〜60年代のヒット曲で
まるで映画「STAND BY ME」のような音楽がかかっていました。
その影響で一番好きだったアルバムは
「American Graffiti」のサントラ盤です。これも今でもよく聴く。
もちろん並行してアイドルやその時々にヒットしていた曲だって聴いてたわけですが
流行っている時期を過ぎれば忘れてしまう。
今思えば上記二つの要素が私の音楽的ルーツの一部であります。
さて大学入学直後
クラブ見学会でかっしー先輩率いるアメ民部員の演奏を見て衝撃。
(アメ民に関しては以前の記事をごらんください)
「3週間でギター弾けるようになるよ!」と言われてに入部した私ですが
当然ながら3週間でギターが弾けるはずもありません。
我々新入生がうすうす騙されたことに気付く時期には
学内デビューライブという身の毛もよだつ通過儀礼が予定されており、
そのためとりあえず必死に練習するわけで
このクラブは新入生が辞めようと思う一番最初の機会を逃す仕組みになっておるのです。
そしてこの通過儀礼ライブを経験することによってバンド内の結束は固くなり
それによって余計に辞められなくなります。
そのうちギター買うのについていってやると言われ、まんまとギターを買わされる。
そして気付いた頃にはルーツミュージックとクラシックロックの泥沼にどっぷり浸かってしまう。
というわけでかっしー先輩達は我々を言葉巧みにを騙して入部させ
小粋な演奏を繰り広げ、思い出を植え付けて
その挙句「がんばれよー」と言い残しあっという間に引退していきました。
「ひどい!」
取り残された我々後輩は、その腹いせに、翌年春
「ギターは3週間で弾けるようになるよ!」と新入生を勧誘したのです。
その頃一番よく聴いたアルバムは
Maria Muldaurかな。名盤です。邦題は「ミート・ミー・アット・ミッドナイト」
ちなみにかっしー先輩の引退後、一時持ち直していたと言われていたアメ民の風紀は
サイクロンのように乱れました。
我々部員は魔窟(クラブBOX)に入りびたり
日々、生まれる前の時代の音楽を聴き狂い、必要以上に歌いギターを奏で、
酒を飲み吐き踊り、ホカ弁の食べ残しを撒き散らし
火をたき時には花火を打ち上げ、
恋が生まれ破れ、ケンカし仲直りしてテストを逃して留年する者が続出し
周囲の人間には「妖精」「最後の無頼」「デスペラード」と揶揄される自堕落な学生生活を送っていました。
その頃一番聴いたのはCSNYの「デジャヴ」かBob Dylanのベスト盤。
しかしそんなアンタッチャブル達にも容赦なく世間の荒波が押し寄せます。
彼らは泣く泣く楽園(魔窟)を後にし、就職、留学などそれぞれの道を歩みはじめました。
が、残念なことに私は筋金入りの妖精、言うなれば妖精の親玉だったので
やはり音楽をやめることはできなかったのです。
ギターが上手だった砂田くんもリアル妖精だったようで、
互いの利害関係が一致して
サンタラとなっていきました。
早く人間になりたい。
その頃ラブハンドルズのデモテープを若林さんにもらって触発され
オリジナルを作る事により力を入れました。
そのうち自主制作していた音源が業界関係者の耳にとまり
なんだかデビューが決まりました。
その頃かっしー先輩は帰国してバンドを作ったばかりで
先輩の声がまた聴けて、初期ファンとしては嬉しかったものです。
ルーツミュージックで燻製されたようなサンタラの音楽は珍しがられ
京都を飛び出して色んな方々に愛されて今に至ります。ありがとう。
でももっと可愛がられたらいいのに、と思います。
8/24今週の日曜日は久しぶりに思い出たっぷりの京都でライブです。
ではまたね。